【新紙幣】新紙幣に採用された人物、渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎とはどんな人物?

2020年9月26日

皆さんこんにちは!

将来の夢はお札に顔が載ること!!!!・・・虚言癖持ちのNoWayです^^

最近気になるニュースが入ってきましたね!

そうです。お札に載る偉人が変わるんですね!!

今回は新しくお札の顔になる方々について詳しく見ていきましょう!ヒェアウィゴッ!!!

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2024年上半期(4~9月)より新デザインの紙幣発行が決定

政府は4月9日、5年後の2024年に、3種類の紙幣のデザインを一新することを発表した。お札のデザインが一新されるのは2004年ぶり20年ぶりのことである。

デザイン一新の理由としては、もともと財務省は20年ごとに紙幣のデザインを変えてきたそうで、今回の変更は定期的なものだそうだ。また、紙幣の偽造防止の強化も理由の一つだという。

これが新しいデザインだ

では早速、新しいデザインを見てみよう。

1万円札

表紙:渋沢 栄一

裏面:東京駅

5千円札

表紙:津田梅子

裏面:藤の花

千円札

表紙:ガンダム

裏面:白紙

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もちろん冗談です。↓こっちです。

表紙:北里柴三郎

裏面:富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」

 

・・・なんか前の方(現行)がよかった気がしなくもないが・・・w

ともかく、このデザインが新しいデザインです!今のうちにそれぞれのピン札を確保しておいて額縁に飾る準備をしておくべきではないでしょうか^^?

ちなみに、新紙幣が出回っても今までの紙幣は通常通り使用できるとのこと。

新しいお札の顔、いったいどんな人?

一万円札:渋沢栄一

渋沢栄一は1840(天保11)年2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれました。
家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、幼い頃から父に学問 の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠から本格的に「論語」などを学びます。
「尊王攘夷」思想の影響を受けた栄一や従兄たちは、高崎城乗っ取りの計画を立てましたが中止し、京都へ向かいます。
郷里を離れた栄一は一橋慶喜に仕えることになり、一橋家の家政の改善などに実力を発揮し、次第に認められていきます。
栄一は27歳の時、15代将軍となった徳川慶喜の実弟・後の水戸藩主、徳川昭武に随行しパリの万国博覧会を見学するほか欧州諸国の実情を見聞し、先進諸国の社会の内情に広く通ずることができました。
明治維新となり欧州から帰国した栄一は、「商法会所」を静岡に設立、その後明治政府に招かれ大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わります。
1873(明治6)年に大蔵省を辞した後、栄一は一民間経済人として活動しました。そのスタートは「第一国立銀行」の総監役(後に頭取)でした。
栄一は第一国立銀行を拠点に、株式会社組織による企業の創設 ・育成に力を入れ、また、「道徳経済合一説」を説き続け、生涯に約500もの企業に関わったといわれています。
栄一は、約600の教育機関 ・社会公共事業の支援並びに民間外交に尽力し、多くの人々に惜しまれながら1931(昭和6)年11月11日、91歳の生涯を閉じました。

(出典:https://www.shibusawa.or.jp/eiichi/eiichi.html

この人は何が偉いのかというと

要するに、昨今の資本主義社会、近代経済の礎を築いた人なんですね!!

この人がいなければ、今私たちの世の中に株式会社という団体が存在しなかったかり、道路、水路、電線等公共インフラの整備が全くされていなかったかもしれないと考えると、この人の功績の大きさがうかがえますね!!

今現在、私たちが豊かな暮らしができているのはある意味この人のおかげなのかもしれませんね。

 

5千円札:津田梅子

津田塾大学の創立者。女子教育,特に女子の英語教育の指導者。津田うめともいう。佐倉藩士津田仙の二女。8歳で女子留学生として渡米。 1882年帰国,のち華族女学校教授となったが,1889年再度渡米し,生物学教育学などを学び,1892年帰国。引き続き華族女学校教授を務め,1898年から女子高等師範学校教授を兼任。 1900年職を辞し,みずから英語を通じて女子の国際的知見を広め,英語教員を養成することを目的として東京麹町に女子英学塾を創設した。かたわら,1901年英文新誌社を設立,英語教科書,英文学書の出版を行なった。この英学塾は中流以上の女子の近代的教養の啓発と英語教育に貢献し,津田英学塾へと発展,1948年津田塾大学となった。

(出典:https://kotobank.jp/word/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E6%A2%85%E5%AD%90-99247

この人は皇族の方々が通うことで有名な津田塾大学を作った人という紹介がいちばん有名ですね。

また、日本で初めて海外留学をして、日本に英語教育を広めた第一人者でもあります。グローバリズムがますます進行する昨今の現代、英語を使う機会が格段に増え、今や義務教育に英語が組み込まれていることを考えると、この人の果たした功績はやはり大きいと言えるでしょう。

 

千円札:北里柴三郎

フリーダム・ガンボーイの略語として・・・失礼。

この人は医療系に特化した大学、北里大学の創設者ですね。

この人を一言で語るとしたら、まさに近代日本医学の父ですね。

主な功績としては、破傷風などの伝染病予防等の”予防医学”という考え方を初めて日本に持ち出したこと毒素を無毒、弱毒化して少量ずつ注射すると、体内でその抗体が作られ、病気の治療や予防が可能になる、「血清療法」に代表される細菌学の発展に大きく貢献したことが挙げられます。

~予防医学の重要性を提唱~

北里柴三郎博士は破傷風菌の純粋培養(破傷風菌だけを取り出し培養する)や血清療法の確立、ジフテリアと破傷風の抗血清開発など、細菌学の分野で多大な功績を上げ、国内外での伝染病予防と治療に貢献したことで知られていますが、そこには、医の基本は予防にあるという信念がありました。

北里博士は1853年、現在の熊本県阿蘇郡小国町に生まれ、1871年に18歳で熊本医学校に入学しました。当初は政治家か軍人を志していましたが、当時同校で教鞭を取っていたオランダ人医師コンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトの指導を受け、医学の道を志し、1874年に上京。東京医学校(明治10年 東京大学医学部に改称)で学識を深めました。

~細菌学分野で数々の功績を上げる~

東京大学卒業後、内務省衛生局(厚生労働省の前身)に奉職し、1886年からドイツに留学。炭疽菌の純粋培養や結核菌の発見などの業績で知られる、病原微生物学研究の第一人者、ローベルト・コッホに師事して研究に励みました。

そして、1889年に世界で初めてとなる破傷風菌の純粋培養に成功し、翌1890年には破傷風菌の毒素を中和する抗体を発見しました。さらに、毒素を無毒、弱毒化して少量ずつ注射すると、体内でその抗体が作られ、病気の治療や予防が可能になる、「血清療法」を開発します。まだ、伝染病に対する有効な原因療法が存在しなかった当時、血清療法は画期的な手法でした。

血清療法は破傷風菌にとどまらず、ジフテリアにも応用でき、ジフテリアの純粋培養に成功したエミール・フォン・ベーリングと連名の論文『動物におけるジフテリアと破傷風の血清療法について』を発表しました。この一連の功績により、北里博士は一躍国際的な研究者としての名声を博すことになります。

1892年に帰国すると、福澤諭吉等の援助を得て私立伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所の前身で1899年に国立伝染病研究所となる)を設立し、所長として伝染病予防と細菌学の研究に取り組みます。翌年には、日本で最初の結核治療専門病院であり、当院の前身である土筆ヶ岡養生園を設立し、結核予防と治療に尽力しました。

自身の研究のみならず、後進の指導にも熱心に取り組んだ北里博士は、伝染病研究所から北里研究所時代で過ごした40年あまりの研究生活の中で、ハブ毒の血清療法を確立した北島多一、赤痢菌発見者の志賀潔、サルヴァルサン(梅毒の特効薬)を創製した秦佐八郎、寄生虫が媒介する病気の研究で業績をあげた宮島幹之助、黄熱病の研究や今の千円札で有名な野口英世など、多くの優秀な弟子を輩出しています。

(引用:https://www.kitasato-u.ac.jp/hokken-hp/special/dna/hokken_origin.html

おわりに

新しい元号、新しい紙幣も決まり、いよいよ新しい時代へ突入する実感がわいてきましたね!

それと同時に、皆さん大好き諭吉さんとの別れの時が刻々と近づいていることもまた悲しき事実です。本当の意味で「さらば諭吉ィ!!」してしまう時が、刻一刻と近づいているのです。

寂しくなりますな。

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